前回書いた暴走するイライラ感情のその後の展開を書こうと思います。
あれから、どうにもならない 〝イライラ感情″ を自分の中に作ったスペースに置いておくと、少し感情を深掘りするの余裕が出てきました。
「何がイライラする原因なんだろう」自分に問いかけます。
「あの人が勝手に進めてるからイヤなの!」言葉が出てきます。
また問いかけます。「勝手に進めるとナンでイヤなの?」
言葉が出てきます。「私を大切に扱ってくれてない!」
あぁ、そうか私は自分を大切に扱われていないと思い込んで怒りが込み上げていたのでした。
私のストーリーは「私は大切に扱われない」と言う観念を持って、そして「私を大切に扱って欲しい」と言う欲求を振りまいていたのです。
その観念と欲求が、私の身体の中のお腹の奥の方で疼いています。
この感覚を身体で感じたまま、その自分を客観的に観ているもう一人の〝気づきの私″ 。
「私と言う人間は、こんな思い込みをして、この世界を彩っているのかぁ。まだまだ自分の中にある傷付いた私なんだなぁ」と、気づきの私はこんな事を考えながら感情体の私を観ているのです。
そんな風に観ていると〝イライラ感情の私″ は自作自演からの少し抜け出しています。
とは云え、〝感情の私″も客観的に観ている〝気づきの私″もまだストーリーの同一化から離れた感じがなく、二人の私がくっつくように並んでいる感じがしています。ストーリーに巻き込まれて二人の私が隣同士にいる感じです。
その身体の感覚から意識的に離れて、ずっと遠いところから眺めてるイメージを作ってみます。
そのイメージは思考ではなく、ただ観ているだけの感じです。
この感じは思考とは違い、意識だけで存在している感覚です。思考とは文字通り考えや確認している事を気づいていきますが、意識とは思考すらしない漠然とそのものを観ているだけの感覚です。
考えない、言葉にしない、評価しない、確認しない、って感じでしょうか。
感情や思考、感覚から離れて傍観していると、それらのものは私と言う人間が作り上げた単なるストーリーだなぁと映画の物語を見ているような気分になります。
そうするとイライラした気分や、私を大切に扱ってくれない不満はどんどん冷めてきて、それほど大きな問題では無いように感じてきます。
そう、映画を観ててストーリーを観てるけど他人事のような感覚です。
そうするとストーリーの中で自分がイライラしているのはどうでも良くなり、そのストーリーの中でどうするのが気持ちいいかなぁと想像し始めます。
同じストーリーに中でも、自分の心地良い方向に視点が変わっていきます。
もちろん、それすらもストーリーの中で〝私の思考″が次の展開として起こしていることなんですが、心地良い新たな展開へと変わっていきます。
同じストーリーの世界を生きるにしても少しシフトして宇宙の意識とリンクしてきたように思います。
感情に十分に触れて、認めて、自分の観念に正直に向き合っていくとスペースが出来上がり傍観するゆとりが出来て、そのまま離れて観る。
思考を外してただ観ている。
そうしていくと、ストーリーと宇宙意識がリンクしてくるように感じます。
今回の私のイライラ感情や出来事は、この事を教えてくれるための流れだったのかも知れません。
大事なのは、自分のイライラ感情に嘘をつかない事ですね。
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