非二元

どうにもできない イライラ感情

2018年明けましておめでとうございます。
今年もインフィニティー共々、よろしくお願いします。
今年もまた感じた事をツラツラと綴っていこうと思います。

新年早々ですが、今日は腹立たしい事があり、それらを通じて感じた事を書こうと思います。

ある出来事が気持ちに引っかかり、それが原因で湧き上がったイライラの感じと、相手を非難する自分がいました。私はその思考を眺め、「あぁ、ストーリーに振り回されてる」と気づきつつ、ストーリーから離れようとするけれど、やっぱり気持ちはイライラから離れられません。

怒りや感情の動きは自分の問題に向き合うチャンスなんだけど、気持ちはそんなことを言ってられなくて、ともかく批判的になっている自分を見ていく事しか出来ず、自分の切り離された部分を見つけるための作業など出来ないのです。

〝批判する思考″や〝思考からくる感情″ はストーリーと同一化していると分かっているけど、私の思考はコントロール出来ないし「ストーリーと分かっている」と言い聞かせて、自分を抑え込むのも単なる抑圧で違う気がするのです。
思考は『私』と言う有機体で単に起こっている事だし、その思考によって感情は沸き起こり結局、何にも出来ないことに気づくのです。

何にも出来ないから、感情的になっている自分と一緒に居るしかなくて、少なくとも今の現状から物理的に離れて自分の身を安心できる場に置く事しか手立てが無いのです。

イライラして頭のなかで文句を言って、気持ちが不安定な自分の状態をただ眺めて、その自分を許す。
自分という有機体に起こっていることをそのまま起こらしていく。

それが人間と言う有機体なんだなぁと感じているのです。

全てはストーリーと知って「同一化せずにストーリーを生きる」と本で読んだり知識はあっても、私を作り上げてる思考と感情はまだまだストーリーの中にいて、どうしようもない私を持て余しながら、その私を赦すスペースを作っていく事しか出来ないと感じています。
それら全てが今起こっている宇宙のようなものなのでしょうね。

私自身がもっと、思考も感情も身体も私のものではないと切り離しが出来るようになれば、こんな事も終わっていくのかも知れません。
その途上にいる今の私を素直に書いてみたくなりました。

きっと、同じような気持ちの人がいるだろうなぁ〜と思いつつ。

 

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自己を超え宇宙に溶け込む意識

先日、スエットロッジに入った時のことです。

私はこの時間空間を抜け出し、宇宙に溶け込んだような意識になりました。

前回にも書いたように、スエットロッジの中はとても狭く、藁で作られたような薄い敷物が一枚下に敷いてあり、お尻には土の感じが伝わってきました。

私たちは水着にパラオを巻いたような姿でスエットの中に入っているので、熱く焼けた石が入ると肌にダイレクトに熱さが伝わり、熱気が身体中を覆い尽くします。

真っ暗闇で隣の人も見えず、自分の身体も見えず、ただ汗が肌を流れる感覚と熱気を浴びてる感覚と狭い場所にいる感覚と、それとインディアンドラムの音と祈りの歌声。

 

今まで真っ暗な空間はフローティングタンクで慣れてはいましたがが、フローティングタンクとはまた違う自分に触れる時間でした。

 

フローティングタンクに入っているときは、時として思考の渦に巻き込まれる事がありますが、スエットロッジでは思考よりも『今』にどのようにいるかに自然とフォーカスされていきます。熱さと一緒にいて、ドラムの音を聴き、声を出して歌う。

先の事や、さっきまでの事を考えている余裕が無いといいましょうか。。。

 

そこにいると不思議な感じがしてきました。

何も考えず、今起こっているスエットの中の出来事を眺め、自分の皮膚感覚を感じていると宇宙と一体になったような感じがしてきたのです。

 

まるで宇宙とダンスをしているような感じです。

「宇宙に溶け込んでいる感じ」とでも言いましょうか、ダンスするときに腕の中に包まれて守られている感じ。それで一緒に流れている感じ。根拠のない安心と一体感なんです。

 

実は私は人一倍思考タイプで頭の中で考えて整理をしたがるところがあります。

理論的に理解し言語化して安心したいんでしょうね。

でも、スエットでの感覚はこれを超えたところにありました。

ああ、『今にいる』ってこれなんだ!

最近、誰もが『今ここにいる』ことを言っていますが、その『今ここ』とはまた別の感じがあります。今ここは、今起こっていることに気付いて、今の状態を見ていく作業ですが、私の体験した『今にいる』は見ることすら無い、だから見るものも見られるものもいない、ただの存在の感じです。

見る視点や思考が無くなり、そこを超えた時にただの存在だけになったのです。

思考を通さなくなった時に『今にいる』事が出来、自分の存在そのものが、宇宙の存在そのものになる感じです。

それが私という個人の存在を超えて、ただそこに存在する『存在』そのものなのだと感じました。

そして、思考で恐れから守っている安心では無く、恐れすらない安心感がそこにありました。

この体験は個人の次元を超え、宇宙に溶け込み意識の存在そのものになった体験だと今になって思うのです。

何か大きな体験をしたような気がしています。

 

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ネイティブインディアンのスエットロッジに入りました

先日、スエットロッジに入ってきました。
スエットロッジとはネイティブインディアンの儀式です。

そのワークショップに行って感じた事を色々と書いていこうと思います。

まず、私は友人の紹介でスエットロッジの意味も知らず入る事を決めたのですが、当日会場で「祈りの儀式」だと説明をと聞いて、既に祈ることに意味を持たなくなっている私は違和感を感じていました。

そこで、そのリーダーである松木正さんに単刀直入にこんな事を伝えたのです。

「 祈ることは欲求を満たすための行為で、エゴの強化になる。それは必要のないことだと私は考えている」

なんて、言ってしまいました。
松木さんからの答えはこうでした。

「祈る事とは、今にいる事。今にいると自分に気づくことが出来る。」

なるほど。「祈ることは今にいる事」なのか…。
それを聞いたらスエットロッジに入る意欲が湧いてきました。

「今にいる」と言うことは私にとって、まさに旬の課題で「今にいる」事で自分を見つめ、自分を知り変化が起きます。
それが全てだと言ってもいいぐらいのことです。
それを聞いて、この体験もプロセスとして起こっているのだ感じるようになっていました。

スエットロッジには深夜11:00頃から入ります。
夜7時に石を熱する為に石を積んで薪に火を付け燃やしていきます。
深夜11時にスエットロッジの中に総勢13名の男女が殆ど水着のような格好で入ります。

スエットの中はとても狭くみんなで小さくなって膝を抱えて座り込んでる感じです。
その中央に熱々に熱した石を入れてスエットの中を蒸し風呂状態にしていきます。

インディアンはスエットを子宮の中と考えているらしく、中に入ると産まれる前の安心の世界でスエットから出てくると現実の日々の生活にいる状態だと説明がありました。
だからスエットに一緒に入ったメンバーは一緒に生まれ変わる仲間だそうです。
新しい家族が出来るというインディアンの考えなのです。

私からすれば子宮というスエットの中はリアリティーの世界で、スエットの外は幻想の自分がいると思い込んでいる世界なのですが。

ともかく、スエットロッジの中に入って膝を寄せ合って座り込みます。

熱した石が入ります一気に中が熱くなり汗が吹き出してきます。入り口を閉めると真っ暗で何も見えなくなります。隣の人も自分の手さえも。

暗闇の中であるのは、インディアンドラムの太鼓の音と全員で歌う祈りの唄。その時間が続き途中では、一人一人が自分の祈りを伝えたりします。

その時間は朝4時まで続きます。途中途中でテントの入り口が開いて飲み水が柄杓で回されて来たり、熱した石が追加されたり、あとは熱さに耐えれなくなった人が外気を吸いに出て行ったりしています。

その中にいて、私は何か冷静に様子を見ている自分がいました。
とてつもない熱さと溢れ出す汗、スエットの中で起こっている人の熱さと戦っている声や祈りの声や、避難しようとする人の様子など外側で起こっている事を眺め、そして自分の内側で起こっている事を眺め、熱さを感じている身体を感じ、水が喉を通る気持ち良さを感じ、汗が流れている腕を感じ。全てを同時に観ている感じだったのです。

皮膚から内側のこと、外側の様子、皮膚で感じていること、全てを感じ取っている感覚。

これを観ながら、「今ここに居る」感覚を体感で掴んでいたように感じます。
それを感じていた時、宇宙と真っ直ぐに繋がっているような、頭の上の扉が開かれているような感じになっていました。

スエットの真っ暗闇の中で起こってあることが、ただそのまま生活の場でも起こっているんだなぁと腑に落ちていたのです。そしてワタシとはスエットの中全体がワタシなのです。

熱さの中で何も思考できないお陰で、ただそこにいる事が出来たように思います。
内も外も感覚もすべて今、同時に感じていく感覚。それが「今にもいる」でした。

スエットから出てきた時は私は清々しく感覚の全てが一つになっている感じでした。

スエットに入った人達の意見は様々です。
熱さをひたすら耐えた人。暗闇が怖くてパニックになりかけていたと言ってた人。祈る事を一生懸命にやって答えを待っていた人。そこにいる人達のプロセスでそれぞれの何かを掴んでいます。
その人のプロセスによって、こんなにも感じ方が違うのも面白い体験でした。
それも全て、宇宙のプロセスだと思って観ていました。
スエットロッジから出て、暫くは体験した事が言葉ではまとまらず、言葉で意味付けせず体験した感覚だけを体の中に温めている感じでした。

ふと、言葉が降りてきました。
「何者にもなる必要は無い」

何処かで、何者かになりたいと願う自分がいて、その自分が「夢を叶えるための祈り」という言葉に抵抗をしていたのでしょう。
自分のエゴを見透かされたような言葉でした。

今にいるとは、何者にもならず、そこを「体験するだけの者」 になっているんでしょうね。

私はネイティブインディアンや祈りには関心は無いけど、「今ここ」や自分の中にある宇宙を感じるためのツールとしては面白い体験だったと思います。

朝が来て、霜が降りたスエットロッジと草木は朝日に照らされ空も澄んで気持ちのいい朝でした。

その体験も宇宙の流れの一つとして有機体の私が経験するプロセスだったんだなぁと幻想の中にいる私を味わいながら青空を眺めてみました。

 

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『私』と言う存在を知る

最近、〈私〉と言う存在と〈私でない〉と言う存在の理解が深まっています。

〈私〉と言う存在が出来上がっていく過程。

リアリティーはエネルギーや物質や有機体(生命体)しか無く、それらは宇宙の星々があるのと同じように宇宙の創造物の一つとしてあるだけです。
その創造物がその瞬間瞬間に形を変えているだけなのに、私たちはその動きに意味合いを付けて人生と呼んでいます。

〈私〉という存在は人間としての有機体の構造上、肉体の本能である危険を察知し、意識体として感情を持ち合わせて、喜びや悲しみ恐れ悔しさなども持って欲求を満たそうとしています。
そして、その肉体をいつの頃からか『私』と名付けて、「これは私。私のもの」と如何にも私自身であるかのように生活をしています。

その〈私〉という人は、過去の積み重ねや周りからの教えや記憶から自己を作り上げていきます。

しかし、それは単なる肉体で単なる宇宙が作った創造物の一つでしかなく、それが宇宙が変化するように宇宙の変化の一部として勝手に動いているだけだとしたらどうでしょう。

宇宙の変化を『自分』だと思っている身体が変化しているだけで、その変化に自分自身が色んなストーリーをつけて泣いたり悲しんだり喜んだり、しているとしたらどうでしょう。

実は私たちはそんな中にいるのだと思います。
そして、そのストーリーの内容は過去に『嫌いな自分』として見ないふりをしているエゴから作り上げられているとしたらどうしよう。

そう考えると、全て自作自演のストーリーの中に私たちはいると思うのです。
本当は自分だと思っている〈私〉すらいないのに、私というプライドを掲げたりまでしています。

そうやって暴いていくと、〈私は居ない〉ということに気付いていきます。そして、私はおらず意識体でもなく単なる宇宙の存在そのものだと感じていくことが出来るのです。

そこに気付いた時、有機体の五感を持っている意味を改めて考えます。
自分で作っているドールハウスの中で、有機体の感覚は思考とは別に感情が湧き上がり、喜びに涙し悲しみに震え怒りのエネルギーを感じ自己成長を求めています。
それは、有機体である根本を忘れることが出来ない現実なのだと思います。
だから、私たちは〈私は居ない〉と知りながら〈私を生きる〉ことが大切なのだと思うのです。

 

日々その両方の自分を見つめながら、宇宙はどのように変化していくんだろうと、変化を眺め、自分の中で起こっている抵抗や不安を感じ、ドールハウスのストーリーに巻き込まれないようにこの時を過ごすことが大切なのだと思うのです。

思考は私では無く、身体も私では無く、感情も私では無く、私もいない。
そして、肉体の〈私〉と言うのは宇宙が作っている。宇宙の表現を見守りながら勘違いしていた自分の感覚を取り戻していく作業がここにあるように思うのです。

ですから、私も自分は居ないと知りながら、有機体の私にコンタクトをして自己成長でする〝喜び″ に触れながら、そのストーリーを楽しんで行けるように観ています。

 

そして、私はセラピストとして、クライエントさんがドールハウスから抜け出して、安心してこの有機体と共にいるようにサポートをしていきたいと考えています。

 

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非二元とストーリーの両輪を生きる

今週末はゲシュタルトワークショップに参加してきました。
ゲシュタルトワークとは、一人のクライエントとファシリテーターの一対一でワークを行います。
他の参加者は二人がワークをするのをただ見守ります。

クライエントが自分の問題をファシリテーターに話し、ファシリテーターはクライエントが その話をした『今』この瞬間に身体や感情はどんな状態になっているのかを聞きながら、クライエントが自分の中に起こっていることに気付けるように促進します。

クライエントの身体の感覚で起こることや湧き上がる感情は自分の正直な感覚です。
その感覚は、有機体して生きて行くための本能であり、人間として正直に生きるセンサーでもあります。

例えば、腐ったものを食べると咄嗟に吐き出してしまうように、私たち人間の感覚は迷い無く生きる方法を知っているのです。

思考は過去の経験や未来の予測や、誰かから教えられた知恵などを考えているから『今』身体でどんな感じがしているのかに気付かなくなっています。 だから、ゲシュタルトワークでは敢えて思考に捉われずに身体の感覚や動き、咄嗟に出る言葉などを拾っていきます。

ゲシュタルトで扱っている世界はもちろん、クライエントが経験した自分の思い込みの世界です。
日々の出来事はただ『起こっているだけ』だけど、人間という有機体はそこに自分という名前を付けてストーリーを生きています。
その中で、苦しみ、喜び、悲しみ、悔しさなどのストーリーを彩っていきます。
私たちは何者でもなく、ただの存在であり、今この瞬間瞬間の宇宙全体が私という存在なのですが、有機体の五感で今を感じているのも、まさに『私』と名付けて有機体であるがゆえに五感で今を感じ取っています。

だから、私たちは宇宙として『私』は居ない事を知りながら、有機体であるこの感覚を生きていく事になります。

そして、そのストーリーを生きるのに私を素直を感じていくこと、有機体である五感を感じ取りながら正直に生きていくことが大切だと思うのです。

ストーリーに気付きながら、有機体が起こしている感覚に素直になって生きていく。
この有機体は『私』ではないと知りながら、有機体が持つ 生き延びようとする生命本能 や 自己成長の意識を見ていく。
その両輪が必要なのだと改めてワークを見守りながら感じていました。

ゲシュタルトワークショップはいつもやっていますが、更に深く自分の中の両輪に触れた気がします。
これも、私自身の理解が深まりゲシュタルトワークと言うものを新たな目線で見れるようになったのだと思います。

それらを通してゲシュタルトワークが、更に意味のあるものだと感じた時でもありました。

 

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目標って何から作られている?

前回のブログで書いたのですが、この頃 積み上げて来た過去の時間に執着をして、その過去に縛られていた自分に気づきます。

 

積み上げて来た過去から『目標』を作り出して、目標に向かっているときはとても充実した気分で楽しいけれど、それは達成感や自己満足や他者からの賞賛を得たくて前だけをみて突き進んでいた感じがしています。

もちろん、それでも自分のやりたい事をやっているのですが、その『やりたい事』が 費やした時間や経験を元にゴールの形を描いている感じがしています。

そのゴールに違和感を感じてゴールの形を変える時、過去の積み上げたものが勿体ない気がして、それが執着となって手放す事がなかなか出来ないのです。

 

今までも生きていて、こんなことは沢山ありました。夢中になってやって来た事が今となっては何の形にもなっていない事。

成長と共に変化して行くのは当たり前なのに、ここに来て努力を無駄にしたくないと思う自分がいるのです。

既存の形を手放せない自分をみて、執着と欲にしがみついていると思うのですが、安心感をそれで手に入れてるようにも思えます。

それは過去の鳥籠の中にいるようにも思えたり…。

 

しかし、『今にいる』という事は過去を積み重ねたものを見据えて今のスタイルを作るのではなく、流れの中の自分が今、湧いて出てきたスタイルを作る事なんだと気付かされます。

目標に向かって走り続ける事は素晴らしいことでもありますが、その目標に疑問が湧いたときに過去に拘らず柔軟に方向転換が出来たらいいですよね。

 

そして、自分の経験やスキルなど培ってきたものを自分なりの表現で今に置き、過去でも未来でも無く、自分の『今』に正直になりながら、目標ではなく目的として やりたい事を作り出せたらいいなぁと思っているこの頃です。

 

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一年経ちました。そして…、

インフィニティーを立ち上げて、一年になりました。

一年しか経っていないのに、とても長く感じています。

立ち上がる前は、学んでいるグループとの繋がりが強く、グループの影響や仲間の繋がりが安心感となり心地良いものでした。

自分で立ち上げると、そのコミュニティーから離れるようになり胎児が外に出たかのように、自分独自の「どうしたいのか」を考えるようになりました。

今までのやり方でいいのか…、今までの学んだスタイルをステレオタイプでやりたいのか、自分は何をやりたいのか、本質を再度自分に問うようになりました。

今思うと立ち上げるまでは、立ち上げることを目標として、目標に進んでいたのだと思います。

 

しかし、『目標』とは 「やりたいことだったのか」と云うことに立ち止まりだしています。

目標とはやりたいことなのでしょうか?

目標とは『何を』するかを追いかけているように思います。

時として、私達は自分の過去の経験や努力を無駄にしたくなく、その経験からのゴールを作り出したいと考えるのではないでしょうか。

でも、それが本当に自分自身が求めている姿だったのでしょうか?

 

一年経った今、自分の足で歩き出してみると本質に触れ出して、本当は何がしたいのか?と言うことを問いかけ始めました。

それは『何をしたいのか』では無く、『何故したいのか』

 

『何 What 』では無く『何故 Why』

それを問いかけ続けることで、自分らしい新たな方向が見つかるように思うのです。

Why  を見つめることで『How どうしたいのか』が明確になります。

 

それすら実はストーリーの中にいるのですが、同じ夢の中でもエゴを握りしめて生きるのと、魂が心地よく宇宙の流れに乗って生きるのではストーリーの作り方が変わると思います。

 

一年経って今、学んできた事への執着を手放して変化する自分の信じて、自分の動きを見てみたいと思っています。

コミュニティーから出て独立すると云うのは自己信頼と大きな成長に繋がりると感じた一年です。

 

そんな話をまた、追い追いと書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

身体に沁み込んだ心の痛み

久しぶりにゲシュタルトのワークでクラエイントをしました。

ワークの入り口は身体の痛み。

身体の痛みを観ていくと、どんどん感情が溢れ出してきました。

悲しみ、不安、安全な場所を求めてる…。

その感覚の中に浸っていると幼い頃の映像が思い出されました。

それは母が仕事から戻ってきた足音。

その足音は母から殴られる前の予兆の音。母が仕事から戻り私の顔を見ると、毎晩のように何かに文句を付けて私を殴る日々。

小学生の私は痛みに堪えながら、殴られる嵐が通りすぎるのを待つ。

抵抗をしようものなら殴られる時間が増えるだけ。だから、ひたすら黙って過ぎ去るのを待つ。

この頃に反抗しないことを覚えました。

幼い私の「自分を守る術」でした。

今では自己抑圧は自分を痛め付けている行為だと知って、我慢せずに自分を守る事も覚えてきました。

だけども、身体に受けた痛みは「怖れ」として今も息づいていたのです。

 

私の身体から出てくるザワザワ感は「怖いよー」と声を発します。

「怖いよー…」  恐怖が身体の奥深くにいて、筋肉を固めて恐怖の波動を感じないようにしていました。

あぁ、こんな風に恐れを感じないように止めていたんだ。

 

恐れを持っていることは知ってたけど、思考で片付けて感じないように切り離していたのです。

切り離した自分の感覚が戻ってきた感じです。

子供の頃に体験した恐れは、そんなに簡単には無くならない。

身体の細胞、内蔵の細胞が覚えています。

それが今ここにありました。

虐待を受けた多くの方々は、その「怖いよー」の声を抱えきれずに大人になっても身体が怖れに抵抗しながらその傷に触れないようにしているのではないかと思います。

その自分に触れてあげる。その自分を感じてあげる。居ていいよといってあげる。

怖さを持っていることを認めて、その自分でいる。

その恐れを見ても、決して恐怖で何か起こったりはしない。だから、感覚を止めずに触れてみる。

 

過去の出来事でも、身体には今もここに残っています。それはストーリーではなくて、その自分はリアリティ。だからストーリーにはしない。逃げない。

その自分と向き合い受け止めていく。

 

過去の記憶はストーリー。

ストーリーには巻き込まれずに、まだ拘っていた自分に気づいていく。

そして、身体から出てくる感覚(波動)はリアリティ。

恐れを持っている自分と自己一致していくと、身体の緊張がほどけ心の痛みは和らいで新たな「今」が見えてきます。

そんなことを感じさせてくれたワークでした。

触れていく自己感覚

瞑想で思考から離れて身体の感覚を感じていると、ふと 子供の頃の映像が思い浮かんできました。

部屋で一人ぼっちでいた時間。回りに誰もいなくて部屋で一人遊びをしている時間。自然と声が出てきます。

「一人ぼっちはイヤ」 「誰か遊んで…」

寂しさが身体の中に広がってきます。

その感覚を今までは思考を始めることで感じないように蓋をしてしました。

 

今はその波動をただ身体で感じ続けます。

「あってもいい」と許していく。

その思いも幻想の私が持っているストーリー。

今までならその感覚を感じることを止めていたり、無理矢理に如何にも受容しているかのように抱き締めて終わらせていました。

 

でも、それすらもせずに眺めていく。ただ過去の記憶と一緒にいる。

私の中の古い傷。私が握りしめていたストーリーの痛み。

それら全てが今あるがままなのだと見ていきます。

 

それは特に身体の丹田の辺りで渦巻いているように感じました。

思考に逃げないように自分を感覚に留めておく。

暫くすると、身体は自然と息をしたくなってきました。

呼吸と共に丹田のエネルギーを吐き出す行為を始めます。そして、新しい空気を吸い身体の中に広げていきます。そしてまた、身体の中から吐き出します。

 

流れていく。落ち着いていく。見守っていく。

 

その寂しさが手放されたのかどうかは分かりません。

ただ「またここにある」と幻想を持ち続けている自分がいることに抵抗は無くなってきたようです。

 

『受け入れる』とは理解することでも無く、身体の反応に任せてそのままにしておくことなのだと体感したように思います。

 

シフトへの扉

前回ストーリーから抜け出す話を書きました。

以前は、”悟り” や ”目覚め” はゴールの向こう側にあり、そこに達するために自己を磨き自己の傷を癒し自分が抱えている問題を手放した先に輝かしい世界が待っているのだと思っていました。

玉ねぎの皮むきのように一枚一枚剥いていき、いつかは心安らぐ自分になると思っていました。

いつになったら、そこに辿り着けるのか・・・。私はあとどれぐらい掛かるのか・・・。

 

しかし、先日ぼーっと歩いていたら浮かんできたのです。

その望んでいたゴールは無いし目指すものも無いのだと。

そう旅もなければ道もないのです。

私の求めていたものは、私の隣にあったのです。それは隣に扉がある感じ。

ストーリーの終わりとは、その扉をただ開くだけでした。扉はいつでも自分で開くことが出来ます。

そう扉の鍵は『安心する』『リラックスする』『寛ぐ』『信頼する』それだけでした。

だから玉ねぎの皮剥きは必要なく、玉ねぎすら実は無かったのです。

玉ねぎと思っていたのは思考が玉ねぎを作っていただけだから。

 

その扉は私の隣にいつでもあって、いつでも開けて旅を終わらせることが出来ます。

しかし、その『安心する・寛ぐ・委ねる』プロセスが何とも難しいこと・・・。

分かっていても出来ない小さな私がいて、”理解” と ”可能にすること” の狭間に挟まれてもがいている私がいます。

 

ストーリーの終わり、目覚め、シフトとは宇宙の流れにお任せすることだったのですが、完全に出来ない私も今ここに居ます。

時には扉を開けて委ねていたり、時には不安になって幻想の世界をコントロールしようとしたりしています。

今は、そんな不安な自分も受け入れそれすらも宇宙の流れの一つなのだと見ています。

全ての答えは「今に寛ぐ」でした。