身体に沁み込んだ心の痛み


久しぶりにゲシュタルトのワークでクラエイントをしました。

ワークの入り口は身体の痛み。

身体の痛みを観ていくと、どんどん感情が溢れ出してきました。

悲しみ、不安、安全な場所を求めてる…。

その感覚の中に浸っていると幼い頃の映像が思い出されました。

それは母が仕事から戻ってきた足音。

その足音は母から殴られる前の予兆の音。母が仕事から戻り私の顔を見ると、毎晩のように何かに文句を付けて私を殴る日々。

小学生の私は痛みに堪えながら、殴られる嵐が通りすぎるのを待つ。

抵抗をしようものなら殴られる時間が増えるだけ。だから、ひたすら黙って過ぎ去るのを待つ。

この頃に反抗しないことを覚えました。

幼い私の「自分を守る術」でした。

今では自己抑圧は自分を痛め付けている行為だと知って、我慢せずに自分を守る事も覚えてきました。

だけども、身体に受けた痛みは「怖れ」として今も息づいていたのです。

 

私の身体から出てくるザワザワ感は「怖いよー」と声を発します。

「怖いよー…」  恐怖が身体の奥深くにいて、筋肉を固めて恐怖の波動を感じないようにしていました。

あぁ、こんな風に恐れを感じないように止めていたんだ。

 

恐れを持っていることは知ってたけど、思考で片付けて感じないように切り離していたのです。

切り離した自分の感覚が戻ってきた感じです。

子供の頃に体験した恐れは、そんなに簡単には無くならない。

身体の細胞、内蔵の細胞が覚えています。

それが今ここにありました。

虐待を受けた多くの方々は、その「怖いよー」の声を抱えきれずに大人になっても身体が怖れに抵抗しながらその傷に触れないようにしているのではないかと思います。

その自分に触れてあげる。その自分を感じてあげる。居ていいよといってあげる。

怖さを持っていることを認めて、その自分でいる。

その恐れを見ても、決して恐怖で何か起こったりはしない。だから、感覚を止めずに触れてみる。

 

過去の出来事でも、身体には今もここに残っています。それはストーリーではなくて、その自分はリアリティ。だからストーリーにはしない。逃げない。

その自分と向き合い受け止めていく。

 

過去の記憶はストーリー。

ストーリーには巻き込まれずに、まだ拘っていた自分に気づいていく。

そして、身体から出てくる感覚(波動)はリアリティ。

恐れを持っている自分と自己一致していくと、身体の緊張がほどけ心の痛みは和らいで新たな「今」が見えてきます。

そんなことを感じさせてくれたワークでした。


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