瞑想で思考から離れて身体の感覚を感じていると、ふと 子供の頃の映像が思い浮かんできました。
部屋で一人ぼっちでいた時間。回りに誰もいなくて部屋で一人遊びをしている時間。自然と声が出てきます。
「一人ぼっちはイヤ」 「誰か遊んで…」
寂しさが身体の中に広がってきます。
その感覚を今までは思考を始めることで感じないように蓋をしてしました。
今はその波動をただ身体で感じ続けます。
「あってもいい」と許していく。
その思いも幻想の私が持っているストーリー。
今までならその感覚を感じることを止めていたり、無理矢理に如何にも受容しているかのように抱き締めて終わらせていました。
でも、それすらもせずに眺めていく。ただ過去の記憶と一緒にいる。
私の中の古い傷。私が握りしめていたストーリーの痛み。
それら全てが今あるがままなのだと見ていきます。
それは特に身体の丹田の辺りで渦巻いているように感じました。
思考に逃げないように自分を感覚に留めておく。
暫くすると、身体は自然と息をしたくなってきました。
呼吸と共に丹田のエネルギーを吐き出す行為を始めます。そして、新しい空気を吸い身体の中に広げていきます。そしてまた、身体の中から吐き出します。
流れていく。落ち着いていく。見守っていく。
その寂しさが手放されたのかどうかは分かりません。
ただ「またここにある」と幻想を持ち続けている自分がいることに抵抗は無くなってきたようです。
『受け入れる』とは理解することでも無く、身体の反応に任せてそのままにしておくことなのだと体感したように思います。