目覚め

第2回目 非二元好きな方のお茶会しました

先日、第2回目のお茶会をしました。

1回目よりも興味を持って下さった方がいらっしゃり、仲間が増えました。

 

日常生活では人に言えない非二元の話題を思いっ切り仲間同士でお喋りし合う楽しい時間を持てたことに感謝しています。

 

情報交換をしたり、最近の自分なりの「目覚め」について感じていることを話してくれたり、ご自分の一瞥体験をお話しくださったり、話題はともかく普段お喋り出来ない事。笑

 

どなたのお話しも興味深く「うんうん、分かる〜」と自分に振り返っては自分の経験に照らし合わせたり、知らない事は興味津々で聞いたりして、同じ話題でも幅も深さも広いなぁと思って伺ってました。

 

この仲間のおしゃべり会は、スピリチュアルティーチャーがいない事で参加者全員が自由に、今起こっている自分の体験や理解をシェアができます。

そうする事で、日頃は口に出せない不安感を表現したり、シェアする事での安心感を得れるような気がしています。

まずは、私がそうだから。(笑)

 

目覚めとは、言葉では語れない自己の中に出てくる感覚だと思うから誰かに教えてもらうのではなくて、自分の今のプロセスを感じ語り合うことで、お互いに影響し合って新たな気づきに繋がるように思います。

もちろん、スピリチュアルティーチャーが存在して導いてくれるのも有難いのですが、時にはこんなお喋りを思いっ切り楽しめる場があるのは嬉しいものです。

 

場を作って下さった参加者の皆様ありがとうございます。

 

そして、参加者の皆さんから頂いた「また、次もやろう!」のお声に第3回目のお茶会を企画する予定です。

その時は、是非ご参加下さいね。

 

 

★★★お知らせ★★★

インフィニティーではワークショップやカウンセリングを行っています。

http://infinity-sp.com/

 

 

 

仲間と非二元の理解を深める

先日開催した『お茶会』の体験が何か私の中で大きな信頼になってきています。

初めてお茶会をするのにあたり不安はありましたが、私はその場で起こる事に任せようと決めていました。

起こることが起こっていく。
必要な人が集まり、必要なプロセスが流れ、参加者さんそれぞれに気づきを深めていく時間。

このお茶会では、主役はおらず全員が自分の話したい事をテーブルの上に話題を乗せるように体験をシェアしてくれました。
他の人が、その話題に対して感じたことや自分の学びの経験を伝え返す。
その場に崇拝する人もいないから、誰も依存的にならず自分たちで話をしながら、自分たちなりの非二元の理解を深めていく。

これって、凄い事だと思うんですよね。
人から教えられるのではなく、自分の中から答えを見出していく。気づいていく。

参加者からの言葉で自分の感覚を味わっていく大切さや、思考せずに感じていく事や、非二元の先にあるのは安心して今にいること…。
と答えを導き出したりして、全員がそれを味わっていく。

そう、私はこれがやりたかったのだと、本当にこの体験に感謝しています。
マハルシやエックハットトールのような指導者がいるのではなく、個々のプロセスを伝え合う事で理解を深める場がある。

誰もが目覚めていて、誰もが完全で、誰もが対等で答えは自分の中にある事を教えてくれる。
それが更に信頼へと深まっていく経験をしています。

こうやって私たちは分離の夢の個人から、一つのエネルギーへと目覚めていくのかも知れませんね。

『非二元好きの方のお茶会』を開いてみました

先日、『非二元好きの方のお茶会』を開催しました。
その事をちょっと書こうと思います。

そもそも、なんでこのお茶会をしようと思ったかと言いますと、私自身が非二元の話を誰とも出来なくて、話しが出来る仲間が欲しかったんですよね。

それで、そんな場所が欲しいと思ってる事を中野真作さんにお話ししたら、中野さんから「やったらいいじゃないですか、必要としている人はいますよ」 とのアドバイス。
単純な私は、「そっかぁ〜、何をやっても失敗は無いんだし、やりたい事をしたらいいんだよね」てな気持ちで
お茶会を開催することにしたのです。

とは言え、私は目覚めた人でも悟った人でも無く、どちらかと言えば迷いのグルグルの途中です。
私のやりたかったことは、ただ、同じ思いの人が集まって心置きなく自分の気付きや、プロセスを語り合うこと。

悟った人が話をする訳でも無いので、
もしかしたら誰もが集まらないかも… と思ったりしていました。
でも、有難い事に中野さんのサポートを頂いたりして数名の方が集まって下さりました。

畳敷きの和室で座布団にゆったりと座り、丸くなってお菓子を囲みながら、お互いが今の気づきや体験を思い思いに話してくれます。

話をリードしてくれる人、気づきを話してくれる人、体験や変化を話してくれる人、それぞれのペースで皆さん
が自分の話したい事をお話ししてくれます。
その会話の中で、自然にエネルギーが動き、ここに癒さ
れ自らの進む方が見えてきます。
それは誰かが教えるのではなく、参加者みんなで自然に出てきた答えです。そして、その見出された答えに心が癒され安心がそこにありました。

その場を信頼して起こることに任せていく。
私はその事を大切に、その場を見守っていきました。
これは、全ての人の中にプロセスがあり答えがあり、その場に必要な事が起こり、その場にいる人たちが共有している気づきに向かうと信じてきたからです。

終わるときに、皆さんから「一回で終わらずに定期的にしましょう」とリクエストを頂きました。
参加しててリラックスした とか、ゆっくり話が出来た とか、思う存分話ができて楽しかったとか、嬉しい言葉を頂きました。

ご参加下さった方が、感想をブログに書いてくれました。その内容を最後に掲載しますね。良かったら読んでみて下さい。

そして、次回は10月に開催する予定です。
非二元、ノンデュアル、悟り、目覚め、そんな話をしたい方は、是非ご参加くださいね。
一緒にアブノーマルな話を堪能しましょう。

ご参加頂いた方に感謝を込めて。
インフィニティー
上谷 和美

■■■参加者さんのお声■■■
40歳代 男性

自分から動いてみた。

blogを見て気になっていた方の
お茶会に参加させて頂いた。

いつもなら発言を躊躇するが
今日は話す事が出来た方だと思う。

自分のしてきた過去のこと
今思っていること、感じていること、
初対面の方ばかりの中で
良く話が出来たなと感心している。

いろんな不安があって、
実際そうだった事もあって、
それでも結果として「大丈夫」だった。

自分がそう思えているのだから
それで良いだけの事。

いろいろなことで
まだクヨクヨすることはあるだろうけど今は
それを感じて、
それを楽しんで、
過ごして行けそうな気がしている

体験がそこにあるだけ

非二元論を伝えている中野さんの個人セッションを時々受けています。

先日の個人セッションでも、いつものように私の思考はフル回転して彼に理解できてないことを尋ねます。

最近の私の思考は、〝気付き″ と〝思考″ と〝観念″ はどのように違うのか。って事です。

よく「気付きを持つ」とか、「気付いていく存在」とか言われますが、気付きが起これば思考になります。

それを考えていれば思考が自分の観念へと作られていきます。

「思考しているのは自分では無い」と言うのであれば、そもそも気付くのも自分では無いのでは無いか…。

「気付きの存在になる」と言うが、それすら自分では無いと言うことになるのではないか。

私の頭はグルグルと回ります。

そのことを中野さんに尋ねると、中野さんは「その思考を止めてください。そのように思考する自分を感じてください」とおっしゃいました。

 

思考を止めて感じていると、また思考が走り始めます。「それって、どうゆう事?  思考を止めようとするのも思考じゃないの?」

そうやって頭の中の会話は続きます。思考で思考をこねくり回して、言いがかりをつけるように理論的を知りたいのよ。って踠いてます。

 

だけど、本当に思考しないようにして感じていると恐ろしさが湧き上がってくるのです。

意味のない不安感や恐怖感。足下が救われた感じ。気持ち悪いのです。

だから、また思考で「自分」のバランスを取ろうとしているのです。

思考が自分ではなくて、気付きも自分ではないなら、本当の私は何処にいるのか。

「自分は居ない」と非二元論を掲げながら、私はまだ「真我の自分」と言うものを探しているのです。

ここにいるのはストーリーの自分で、真我の自分が何処かにいると思っているのです。

 

そして、彼は言います「何をやっててもいいんです。何でもいいんです。何もしても正しいや間違いもないんです。だから非二元なんです」と。

いつも聞く言葉なのですが、今回はその言葉を聞いて何がが変わりました。

私が探していたのは「正しい答え」だったのです。

そして、彼はいつものように言います「感じてください」と。

そう、思考の中に答えはなくただ感じていく。
文字や言葉など自分外側に答えはなく、自分の内側だけに知りたかったその先があると言うことが、少し今までよりも腑に落ちてきます。

そして、なにが起こっていても間違いも正しいも無く、何が起こっていてもそのままて、何が起こっていてもそれで良いのだと非二元の根本に気付かされます。

そうすると、「私の気付きは誰か」と追及する事なく起こっていることで、思考も「誰なのか」と追及する事なく起こっていることで、今起こっていることはすべて起こっているだけのことで、ただ体験だけがあるのだと思ったのです。

思考を止めると不安を感じる感覚を体験する。
思考でぐるぐる巻きになってることを体験する。
ここで笑っていることを体験する。
上手くいかないと感じた私を体験する。

 

こんな風に意識が変わると思考の檻が外れるのです。<思考しているこの感覚を体験する。

気付きも思考で何か知る事があるのでは無く、知って成長があるのでも無く、起こっていることを解釈するのでも無く、いや解釈したいなら解釈をすればいいだけであり、すべて宇宙で起こっている流れだけを体験するだけ。

何をしててもOK、やりたい事をただやっていく。それが宇宙の流れだから。

そして、それを体験する。

こんなことを感じるこの頃になってきています。

 

★★★ ワークショップのお知らせ★★★

 

インフィニティーとしてワークショップなどの活動をしています。

6/3は『非二元好きの方のお茶会』をします。
ご興味のある方はこちらをご覧下さい。
http://infinity-sp.com/blog/?p=865<

ネイティブインディアンのスエットロッジに入りました

先日、スエットロッジに入ってきました。
スエットロッジとはネイティブインディアンの儀式です。

そのワークショップに行って感じた事を色々と書いていこうと思います。

まず、私は友人の紹介でスエットロッジの意味も知らず入る事を決めたのですが、当日会場で「祈りの儀式」だと説明をと聞いて、既に祈ることに意味を持たなくなっている私は違和感を感じていました。

そこで、そのリーダーである松木正さんに単刀直入にこんな事を伝えたのです。

「 祈ることは欲求を満たすための行為で、エゴの強化になる。それは必要のないことだと私は考えている」

なんて、言ってしまいました。
松木さんからの答えはこうでした。

「祈る事とは、今にいる事。今にいると自分に気づくことが出来る。」

なるほど。「祈ることは今にいる事」なのか…。
それを聞いたらスエットロッジに入る意欲が湧いてきました。

「今にいる」と言うことは私にとって、まさに旬の課題で「今にいる」事で自分を見つめ、自分を知り変化が起きます。
それが全てだと言ってもいいぐらいのことです。
それを聞いて、この体験もプロセスとして起こっているのだ感じるようになっていました。

スエットロッジには深夜11:00頃から入ります。
夜7時に石を熱する為に石を積んで薪に火を付け燃やしていきます。
深夜11時にスエットロッジの中に総勢13名の男女が殆ど水着のような格好で入ります。

スエットの中はとても狭くみんなで小さくなって膝を抱えて座り込んでる感じです。
その中央に熱々に熱した石を入れてスエットの中を蒸し風呂状態にしていきます。

インディアンはスエットを子宮の中と考えているらしく、中に入ると産まれる前の安心の世界でスエットから出てくると現実の日々の生活にいる状態だと説明がありました。
だからスエットに一緒に入ったメンバーは一緒に生まれ変わる仲間だそうです。
新しい家族が出来るというインディアンの考えなのです。

私からすれば子宮というスエットの中はリアリティーの世界で、スエットの外は幻想の自分がいると思い込んでいる世界なのですが。

ともかく、スエットロッジの中に入って膝を寄せ合って座り込みます。

熱した石が入ります一気に中が熱くなり汗が吹き出してきます。入り口を閉めると真っ暗で何も見えなくなります。隣の人も自分の手さえも。

暗闇の中であるのは、インディアンドラムの太鼓の音と全員で歌う祈りの唄。その時間が続き途中では、一人一人が自分の祈りを伝えたりします。

その時間は朝4時まで続きます。途中途中でテントの入り口が開いて飲み水が柄杓で回されて来たり、熱した石が追加されたり、あとは熱さに耐えれなくなった人が外気を吸いに出て行ったりしています。

その中にいて、私は何か冷静に様子を見ている自分がいました。
とてつもない熱さと溢れ出す汗、スエットの中で起こっている人の熱さと戦っている声や祈りの声や、避難しようとする人の様子など外側で起こっている事を眺め、そして自分の内側で起こっている事を眺め、熱さを感じている身体を感じ、水が喉を通る気持ち良さを感じ、汗が流れている腕を感じ。全てを同時に観ている感じだったのです。

皮膚から内側のこと、外側の様子、皮膚で感じていること、全てを感じ取っている感覚。

これを観ながら、「今ここに居る」感覚を体感で掴んでいたように感じます。
それを感じていた時、宇宙と真っ直ぐに繋がっているような、頭の上の扉が開かれているような感じになっていました。

スエットの真っ暗闇の中で起こってあることが、ただそのまま生活の場でも起こっているんだなぁと腑に落ちていたのです。そしてワタシとはスエットの中全体がワタシなのです。

熱さの中で何も思考できないお陰で、ただそこにいる事が出来たように思います。
内も外も感覚もすべて今、同時に感じていく感覚。それが「今にもいる」でした。

スエットから出てきた時は私は清々しく感覚の全てが一つになっている感じでした。

スエットに入った人達の意見は様々です。
熱さをひたすら耐えた人。暗闇が怖くてパニックになりかけていたと言ってた人。祈る事を一生懸命にやって答えを待っていた人。そこにいる人達のプロセスでそれぞれの何かを掴んでいます。
その人のプロセスによって、こんなにも感じ方が違うのも面白い体験でした。
それも全て、宇宙のプロセスだと思って観ていました。
スエットロッジから出て、暫くは体験した事が言葉ではまとまらず、言葉で意味付けせず体験した感覚だけを体の中に温めている感じでした。

ふと、言葉が降りてきました。
「何者にもなる必要は無い」

何処かで、何者かになりたいと願う自分がいて、その自分が「夢を叶えるための祈り」という言葉に抵抗をしていたのでしょう。
自分のエゴを見透かされたような言葉でした。

今にいるとは、何者にもならず、そこを「体験するだけの者」 になっているんでしょうね。

私はネイティブインディアンや祈りには関心は無いけど、「今ここ」や自分の中にある宇宙を感じるためのツールとしては面白い体験だったと思います。

朝が来て、霜が降りたスエットロッジと草木は朝日に照らされ空も澄んで気持ちのいい朝でした。

その体験も宇宙の流れの一つとして有機体の私が経験するプロセスだったんだなぁと幻想の中にいる私を味わいながら青空を眺めてみました。

 

★★★ワークショップのご案内★★★

各種ワークショップを開催しています。

スケジュールはインフィニティーHPに記載していますので、ご覧下さい。

『私』と言う存在を知る

最近、〈私〉と言う存在と〈私でない〉と言う存在の理解が深まっています。

〈私〉と言う存在が出来上がっていく過程。

リアリティーはエネルギーや物質や有機体(生命体)しか無く、それらは宇宙の星々があるのと同じように宇宙の創造物の一つとしてあるだけです。
その創造物がその瞬間瞬間に形を変えているだけなのに、私たちはその動きに意味合いを付けて人生と呼んでいます。

〈私〉という存在は人間としての有機体の構造上、肉体の本能である危険を察知し、意識体として感情を持ち合わせて、喜びや悲しみ恐れ悔しさなども持って欲求を満たそうとしています。
そして、その肉体をいつの頃からか『私』と名付けて、「これは私。私のもの」と如何にも私自身であるかのように生活をしています。

その〈私〉という人は、過去の積み重ねや周りからの教えや記憶から自己を作り上げていきます。

しかし、それは単なる肉体で単なる宇宙が作った創造物の一つでしかなく、それが宇宙が変化するように宇宙の変化の一部として勝手に動いているだけだとしたらどうでしょう。

宇宙の変化を『自分』だと思っている身体が変化しているだけで、その変化に自分自身が色んなストーリーをつけて泣いたり悲しんだり喜んだり、しているとしたらどうでしょう。

実は私たちはそんな中にいるのだと思います。
そして、そのストーリーの内容は過去に『嫌いな自分』として見ないふりをしているエゴから作り上げられているとしたらどうしよう。

そう考えると、全て自作自演のストーリーの中に私たちはいると思うのです。
本当は自分だと思っている〈私〉すらいないのに、私というプライドを掲げたりまでしています。

そうやって暴いていくと、〈私は居ない〉ということに気付いていきます。そして、私はおらず意識体でもなく単なる宇宙の存在そのものだと感じていくことが出来るのです。

そこに気付いた時、有機体の五感を持っている意味を改めて考えます。
自分で作っているドールハウスの中で、有機体の感覚は思考とは別に感情が湧き上がり、喜びに涙し悲しみに震え怒りのエネルギーを感じ自己成長を求めています。
それは、有機体である根本を忘れることが出来ない現実なのだと思います。
だから、私たちは〈私は居ない〉と知りながら〈私を生きる〉ことが大切なのだと思うのです。

 

日々その両方の自分を見つめながら、宇宙はどのように変化していくんだろうと、変化を眺め、自分の中で起こっている抵抗や不安を感じ、ドールハウスのストーリーに巻き込まれないようにこの時を過ごすことが大切なのだと思うのです。

思考は私では無く、身体も私では無く、感情も私では無く、私もいない。
そして、肉体の〈私〉と言うのは宇宙が作っている。宇宙の表現を見守りながら勘違いしていた自分の感覚を取り戻していく作業がここにあるように思うのです。

ですから、私も自分は居ないと知りながら、有機体の私にコンタクトをして自己成長でする〝喜び″ に触れながら、そのストーリーを楽しんで行けるように観ています。

 

そして、私はセラピストとして、クライエントさんがドールハウスから抜け出して、安心してこの有機体と共にいるようにサポートをしていきたいと考えています。

 

★★★ワークショップのご案内★★★

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非二元とストーリーの両輪を生きる

今週末はゲシュタルトワークショップに参加してきました。
ゲシュタルトワークとは、一人のクライエントとファシリテーターの一対一でワークを行います。
他の参加者は二人がワークをするのをただ見守ります。

クライエントが自分の問題をファシリテーターに話し、ファシリテーターはクライエントが その話をした『今』この瞬間に身体や感情はどんな状態になっているのかを聞きながら、クライエントが自分の中に起こっていることに気付けるように促進します。

クライエントの身体の感覚で起こることや湧き上がる感情は自分の正直な感覚です。
その感覚は、有機体して生きて行くための本能であり、人間として正直に生きるセンサーでもあります。

例えば、腐ったものを食べると咄嗟に吐き出してしまうように、私たち人間の感覚は迷い無く生きる方法を知っているのです。

思考は過去の経験や未来の予測や、誰かから教えられた知恵などを考えているから『今』身体でどんな感じがしているのかに気付かなくなっています。 だから、ゲシュタルトワークでは敢えて思考に捉われずに身体の感覚や動き、咄嗟に出る言葉などを拾っていきます。

ゲシュタルトで扱っている世界はもちろん、クライエントが経験した自分の思い込みの世界です。
日々の出来事はただ『起こっているだけ』だけど、人間という有機体はそこに自分という名前を付けてストーリーを生きています。
その中で、苦しみ、喜び、悲しみ、悔しさなどのストーリーを彩っていきます。
私たちは何者でもなく、ただの存在であり、今この瞬間瞬間の宇宙全体が私という存在なのですが、有機体の五感で今を感じているのも、まさに『私』と名付けて有機体であるがゆえに五感で今を感じ取っています。

だから、私たちは宇宙として『私』は居ない事を知りながら、有機体であるこの感覚を生きていく事になります。

そして、そのストーリーを生きるのに私を素直を感じていくこと、有機体である五感を感じ取りながら正直に生きていくことが大切だと思うのです。

ストーリーに気付きながら、有機体が起こしている感覚に素直になって生きていく。
この有機体は『私』ではないと知りながら、有機体が持つ 生き延びようとする生命本能 や 自己成長の意識を見ていく。
その両輪が必要なのだと改めてワークを見守りながら感じていました。

ゲシュタルトワークショップはいつもやっていますが、更に深く自分の中の両輪に触れた気がします。
これも、私自身の理解が深まりゲシュタルトワークと言うものを新たな目線で見れるようになったのだと思います。

それらを通してゲシュタルトワークが、更に意味のあるものだと感じた時でもありました。

 

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『ストーリーの私』を守っていた思考

フローティングタンクに入りはじめて『思考』のおしゃべりに気付きだしてから、私の中で大きなシフトが起こっています。

思考が忙しく動いているときは、どれほど『ストーリーの自分』を守ることに忙しかったのか。

思考はろくな事を考えていないのに…。

思考は自分のストーリーを守ることをせっせとしています。

何かの意味付けをしたり、自分を安心させるための言い訳をしたり、過去を思い出したり、未来を予想して安全になることを考えたり、人から教えられた価値観を持ち出して照らし合わせたり…。自分を守ることに振り回されて考えが考えを生みだし自分のストーリーの中にまた巻き込まれていくストーリーの私。

思考の中に入り続けていた自分。

それに気づき、そこから抜け出すために自分の身体に意識を向けて、五感で今起こっていることにコンタクトをする。

身体で感じていることがリアリティの『今』なのだと分かり、そして、その身体は何も迷いを持たないのです。

考えても考えても答えのでなかったリアリティの世界は考えの中には無かったのです。

だから、思考で知っているスピリチュアルも前世も魂も哲学も仏陀も全て、幻想ストーリーのお話なんだと気付きました。

魂を信じ精神世界を信じている『ストーリーの私』。

 

考えても学んでも矛盾や答えの行き届かない『目覚め』。

マトリシカのようになってて、どこにゴールがあるのだろうかと迷走する想い。

ぐるぐると回った今、そこには答えがないと知り、そして答えすら無く、あるのは感覚で感じる事だけだったのです。

自分のストーリーから抜け出してみると、違う世界が広がりだしました。

そのお話は、これから追々 綴っていこうと思います。

 

 

身体が教えてくれることのワークを終えて

先日、身体にフォーカスしたワークショップを行いました。

みなさん日頃は身体の状態など感じず目の前にある生活に振り回されて忙しくしています。
そして、病気や身体の痛みよって不都合が生じたり、日常が思うように進まなかったりしています。
その病気や痛みは身体からのメッセージなんだと言うことをワークショップでは取り上げていきました。
身体とは肉体だけでなく、感情のボティーと魂のボティーがあります。肉体(グロスボディー)、感情や思考(サトルボディー)、魂(コーザルボディー)この三つが波動しとて重なりあって私たちの身体を作っています。
身体の痛みや病気は魂のエネルギーと思考や感情のエネルギーが不調を起こしたときに発生します。
ですから、私たちにとっては「今、自分は感情の流を滞らせたり、宇宙の流れに逆らっているんだよ」と言うことを教えてくれているのです。
しかし、通常はこれに耳を傾けず不調を薬で止めてしまったり無理をしてしまったりしています。
ワークでは、それを丁寧に取り出し自分の中の痛みに向き合い、それを認め受け入れます。
実はそれだけでもかなり本人にとっては辛い作業です。
自分では認めたくない、または見ないようにする事で上手くバランスを取っていたつもりの自己抑圧を認めていく作業なのですから。。。

それらの自己感覚を受け入れていく。そして自分の中で起こっている滞りに気付いていくのです。
身体は自分ではありません。自分の持ち物ではあるけれど…。
身体を自分のパートナーとして協調していく。
身体は『ここ』にいるための大切なパートナーなのです。
身体とは『私』と言う幻想から『ワタシ』と言うリアリティを取り戻していくための入り口なのです。
今、この瞬間を感じる音であり、匂いであり、目に飛び込んでくる色や形、そして皮膚に触れている圧力や温度、感覚。
 それら全てが唯一リアリティーなのです。ワタシとは、ただそこに同調してそこに存在している全てです。
それが、身体の痛みや感情に巻き込まれているときにワタシから分離して『私』のストーリーに同一化していることを教えられるのです。
だから痛みを見たときは、分離している自分の幻想に気付く時だと言えるのです。
ワークでは、そこまでお伝えは出来ませんが、まずは、自分のなかを統合していく第一ステップを行いました。

心地よく自分を解放するには、どんな状態でも否定せず非難せず、そこに在ることを認め自分に気付いていく事なのだと思っています。
そこに気付かしてくれるのが身体なのです。
思考を越えて身体からの声に耳を傾けてみてくださいね。

ストーリーから逃避のストーリー

GWの休暇はニューカレドニア(NC)に行ってきました。NCは大好きな場所で今回で3度目の訪問です。

NCは海の色が綺麗で太陽の光も豊です。木々や芝生の緑も多く、そして色んな鳥が多くいつも鳥の鳴き声がしています。町の人たちはみんな笑顔でフレンドリーですし、ゆったりとした時間を使っています。日本で味わえない時間の豊かさや人の豊かさをこの土地では感じるのです。

NCの人たちは歩き方も暮らし方も一切急いではなく、笑顔で会話を楽しみ自分のスタイルを大切にしているように感じます。日本の暮らし方とは全く違う時間を使い方をしています。その暮らしが私には羨ましく日本から脱出して身体と心をリラックスさせたいのです。

だから、私の旅の目的は”何も予定を作らずその日の気分で一日を過ごすこと”。

朝、鳥のさえずりの声で目を覚まし、海を眺めながらベランダでのんびりとコーヒーを飲んで、今日は何をしたいかを自分に聞いて一日がスタートします。

朝市に行ってその日に食べたい食材を買い出し、ぶらぶら散歩をしてお昼寝をする。そしてまた海を見に散歩に出掛ける。夕方は夕日を見にまた海へ。 とても贅沢な時間・・・。

NCの鳥の声を聴き、波の音を聴き、木々や芝生の緑や海のエメラルドグリーンの色を見て、空の青さや広さを感じ、空気を肌で感じ風が触れる。その一つ一つを感じていると心が開いていくのを感じます。

安心して『今』に居ることが出来て無防備になっている自分を感じます。

いつもの生活は「しなければならないこと」に追われて、いつも先の事ばかり考え『今』にいることが出来ません。

心がとても狭くなっていて、生活に追われている感じがしています。

何がそれほどまでに違うのだろうか・・と考えるのです。何故日々の生活ではこのように豊かな気持ちにはなれないのか。

景色が違う? 空気が違う? 太陽が違う? 暮らし方が違う? 分からない・・・。

 

でも分かることは、日々の暮らしでは自分を守るように常に先手先手を考えて「しなければならない」ことを沢山作っている事です。

それはきっとまだ私が流れを信じ切っていないからなのでしょうね。

上手く生きれるように人生をコントロールしているつもりなのだと思います。コントロールできないと知りながら、今に対処してコントロールしているように動いています。恐れから・・。

そのことを此所に居て感じさせられました。

場所や状況を自分で変えて安心や心地良さを作るのではなく、ストーリーから離れて本当の心地良さや自由を見つけ出す。  そんな方法を非二元の知識ではなく、自己からの目覚めとして経験をすることが出来たらいいのに・・と、またエゴが欲求してる自分に気づいていきます。

全てありのままの自分を見て気づいて許して眺めて、ストーリーの中と知りながらストーリーをどのように生きるかを見つけていく。

全てがストーリーで、どのストーリーを選択しているかと云う事なのでしょうね。

ストーリーと知ってストーリーを生きる。私はこれから、どのストーリーを創造していくのだろうか。

そんなことを考えながら海を見て過ごしていた休暇でした。