自分を観ていると思考が止まらないことに気付きます。あれもしなければ…、これもしなければ…と思考が止まらない。
思考がぐるぐると回り続けていて心がここに在らず、仕事の事を考えたりワークの事を考えたり、はたまたは目の前を通っていく人を観てはジャッジしてたりしています。
静かなる内側を求めながらも心に目を向けようとしても思考が動き出してしまいます。
思考は幻想の中に戦場を作り出し、この戦線をどのように潜り抜けるのか、戦場で戦う思考を張り巡らしているのです。
本当は何もする必要はないのに、その場に沸いてきたことだけを受け入れればいいだけなのに…と、知っていながらも、そこにいると何かを体系立てて考えていないと不安が私を襲い「どうにかしなければ」と言う気持ちになるのです。
その場に寛ぐ事が出来ない自分を知ります。
ああ、何か段取りをしたり予測したり、見解を考えたり理由付けをしたり理論付けしたり、形にすることで安心を得ようとしている自分がいるのだなぁと感じています。
先を予測しないと不安な自分。分からないことを分からないままに出来ない自分。だから、思考で考えを固めて自分を安心させている。自分と云うエゴの私の感覚。
思考で考えをまとめて、如何にも納得して建設的に生きているように自分を作り上げている。エゴの満足感。
そこに気付いて思考に操作されていることに不快感を感じている私。
うーん、マトリシカの人形のように剥いても剥いてもエゴの私は『ここに居る』と云う感覚を握りしめています。
思考ではなく、分からないことを分からないままに、静けさの中に居る事。その静けさに寛ぐことを求めながらもありのままに居る事を許していない私。
そうやって、思考の渦へと巻かれていく。そして、これも「夢の中の私の遊びなんだよ」と、もう一人の私が教えています。
起こっていることを信頼して流れを観ていくだけでいいのに、そこに居る事が出来ない私には何が起こっているのでしょうか。
『ストーリーに巻き込まれて同一化している私』 知りながらも同一化から離れれない私がいます。