目覚め

理解の先の非二元

非二元のお話で、今日はある日の体験を書こうと思います。

非二元の理解を深めたい、もっと理論的に理解したいと思った私は中野晋作さん(非二元について本を出している方)の元に行きました。

4時間に渡り個人セッションをして頂いたのですが終わる頃には私の思考はグチャグチャになり、何をどのように考えていいのか全く整理の付かない状態になっていました。

1+1=2 ではなくなり、感覚としては左右前後が分からない感じで自分が今どうなっているのかが分からない感じです。今までの常識のような感覚はそこには無く、敢えて云うなら宇宙遊泳をしてバランスを崩しているようなぐるんぐるんした感覚に陥りました。

その感覚を中野さんに伝えると「分からないことを分からないままにしておく」とアドバイスを頂きました。理解しようとすること自体もストーリーなのだと…。

結局その日、私は分からない自分自身を放置するしかありませんでした。

 

それから二日後、仕事で出張をしていてホテルに泊まった時の事です。

夢を見ていました。その夢の内容が宿泊先のそのホテルの部屋に幽霊がいるんです。それで、ポンターガイスト現象も起きていて部屋の物が飛び交い夢の中の私はベッドで横たわりながら恐怖で怯えています。そして、その幽霊が私の横に立ち私のパジャマの左袖を引っ張り、私をベッドから引きずつ出そうとしていました。もちろんこれは眠っている夢の中で出来事です。

夢の中の私は恐怖で体が硬直し声が出ません。必死にもがいて抵抗して力を振り絞り、やっとの思いで「やめて~!」と叫ぶことが出来、そこで目が覚めました。

その時、目が開いて目に飛び込んできたものは、自分の右手が逃げる左手首を掴んでいたのです。そうです、私の左手首を引っ張っていたのは右手でした。

これを見たときに何かが府に落ちたような、愕然として力が抜けたような感じでした。

結局、自分の恐怖は自分が作り出している。と云うことです。

そして、『自分はコントロール出来ない』と云うことも同時に沸き上がりました。

自分をコントロールしようとするから苦しみや恐怖や不安が起きるのです。

自分とは真我の『ワタシ』です。

ワタシとは宇宙であり、ワタシの扱っているこの肉体は宇宙の万物の波動のひとつなのです。宇宙の変化の流れの中で宇宙の摂理の一つとして変化をしていきます。

それを私がどうにかしようとコントロールすること自体が流れを止め、抵抗の苦しみを作り出しているのだと体験から教えられました。

「私が選択して生きていている」と思っているこの人生も、「起こしている」のではなく「起こっている」のです。人生は全て起こっているだけなのです。

それを「自分が、自分が…」と云う思いでどうにかしていると思っていたから苦しみや抵抗や執着や葛藤が生まれていたのです。

「分からないことを分からないままにしておく」それは思考の理解を超え、エネルギーとして自分のタイミングで言葉ではない体感として気付いていくものなのだと分かった体験でした。

そう、結局、非二元なんで思考ではわからないのです。分かって言葉にした時点で非二元では無くなります。言葉にすることは形にすることで、形にすると「有る」が発生します。「有る」が発生すると「無い」が生み出されます。だから言葉でも思考でも表現できず、ただ「在る」それなのです。360度全部ある、全部それ、そしてただ「在る」。

理解できなくて分からなくなって、ジグゾーパズルのように嵌め込みが出来なくなったときが「それ」なのです。「それ」は理解を超えたその先にあるのです。

その体験は、そんなことがエネルギーとして感じられました。分からない安心感。ない安心感。それは途方もない安心感。

思考の小さな世界で起こる安心感と全く違ったものでした。

 

しかし、その体験から数カ月経過した今では、その感覚は薄らぎ記憶でしか残っていません。残念ながら・・・。

これも思考に入ってしまったと云う事なのでしょうね。これらの感覚は常に思考を超えた「そこ」にあるのでしょう。

あの体感覚を持ち続けたいのですが、今はそれを欲しがる欲求すら手放して起こることに委ねるしかないのだと思っています。

それが今の私なのだと放っておくことが「私のストーリー」の中に入り込まないことなのだと今にいます。

現実は幻想 ストーリーの始り

「私」と云う存在がワタシから離れた話を先日書きました。その話をもう少し続けてみようと思います。

そもそも、「私」と言っている上谷和美は何者なのか?
産まれたばかりの頃は自分を「上谷和美」だとは知りません。 成長過程で名前を呼ばれ、褒められることで喜びの波動が身体に走り、両親から怒られると悲しみや恐怖の波動が身体に走り、波動からの心地悪さで気持ちよいとか、不快だとかの記憶を持ちます。エゴの発生です。
そして、「私」は気持ちよい感覚はもっと味わいたいと思考し始めます。
怖れや悲しみの不快な波動は感じたくないと思い思考は不快な感覚から逃げれるような方法を生み出します。

思考はどんどん不快の波動からこの肉体(有機体)を守るよう知識と経験を付けていきます。
そして、この有機体に固着してこれは「私」として固有名詞を付け上谷和美と呼んでいます。

有機体は宇宙の中に存在する一つの生命体で宇宙の一部の存在です。思考の所有物ではありません。
しかし、波動に良し悪しを付けた時点から分離が始りだしました。
これは味わいたい波動で、これは嫌な波動で、これはやっていいことで、これはダメなことで、これは私の物で、あれは人の物で、人よりも良いものを持ちたくて、人よりも優秀な人材と言われたくて…など。
思考で起こった分離は、どんどん大きくなり分離の世界を作り出します。
そして、上谷和美と云う「私」がいます。

幼い頃から、沢山インプットされたルールがあり、気が付くと、この有機体は沢山の情報と経験から「私は危険だ」と思っている思考を元に観念がインストールをされた有機体になっていたのです。

そして、宇宙のエネルギーのワタシは思考で作り出した「私」を自分と信じ、自分が作り出した分離の世界が本当の世界なんだと信用していたのです。ここに気づいたとき、この幻想を暴き出したような気分でした。
今、起こっている世界は「私」の分離が作り出したストーリーの世界だったんです。

もちろん、このストーリーの世界にも意味があります。ワタシの意識エネルギーがこの肉体を使って体験をしているのですから。
でも、まずはこの現実だと思っていたものは幻想のストーリーで、私も思考が作り上げたイメージの人だったと云うことです。

現実の崩壊が始まりました。

ストーリーの「私」から離れる

非二元の目覚めに関して書き綴りたいと思いながら、なかなか手が動かない私がいます。

どこかで非二元のような考え方を人に話すことで「気が振れた奴」だと思われたくないのかも知れません。

でも、そろそろ そんな自分を認め表現するしかないのだろうと思ったりもしています。

 

私が初めて『私』から剥がれた時のお話です。

私は、非二元論は以前から興味はあったものの知識も浅く、それらしい本を読んでは文字での理解や興味は持っていました。

しかしながら、実感はないまま興味の範囲で終わっていました。

ある日、私は自分でワークショップなどを開催することに抵抗しているとき、「何故それほどまでに私の中に抵抗があるのだろうか・・」と自分に問い掛けていました。答えは、もしも上手くいかなかったら周りの人に笑われる、恥ずかしい、取り残された感じがするなど 最初は他者からの評価が気になっていました。

しかし、本当にソコだろうか…と自分の心を見ていると私は他者の評価を気にしているのではなく、本当は自分が成功しなかった時に「自分が自分に幻滅する」事を恐れていたのです。そう、私は他者評価よりも自分が自分に「出来ない奴」とレッテルを張り幻滅したくなかったのです。私は自分と戦っていたことに驚きました。

しかし、よぉ~く考えてみると、その戦っている「幻滅したくない自分」とは誰なのでしょうか・・・。自分が自分をがっかりさせたくない?? その自分って誰??

「あれっ??」て自分で肩透かしにあったような気分でした。

幻滅したくない自分って、自分が作り出したイメージの自分です。イメージの自分って誰が作ったの? 自分です・・。グルグル回り、自分は「誰」で誰が誰のために身を守っ怖れを持っているのか分からなくなってしましました。

分かったことは「幻滅させたくない自分」は自分が作った幻想で実はどこにも居なかったと云う事。その自分の妄想の自分の戦っていたと言うことです。自分が自分の影を作り、影のプライドを満足させるために苦しんでいたのです。

結果、「私」という人は自分が勝手に思考で「私」と名付けて期待していただけで、「私」と云う実態はいなかったと云う事なのです。その時、初めて「私」と云う幻想から「ワタシ」が離れたのです。そう、私と云うストーリーからワタシが抜けだた瞬間です。

「私」とは実在しない存在なのです。

私の「分離した私」のストーリーから目覚め、分離していることに気付く旅はここからは始まりました。

その後は、中野晋作さん(非二元論の著者)のサポートを貰いながら分離から目覚める旅を進めています。これからは、時々その旅の話と戸惑いと経験を少しずつブログに綴っていこうと思います。

目覚めの旅のスタートにて。。